ジープ3台でビルマ全域補給責任者が補給にやってきた [軍事]
この本は旧日本陸軍で太平洋戦争中に戦死した将官たちについての本です。
各々の将軍の戦死までの経歴や、戦死状況とかが書かれててます。
この中の高田清秀少将(昭和20年5月19日戦死)の項目で知ったのですが、この人はインパール作戦時の補給まとめてる第5野戦輸送司令部のトップで、作戦中にビルマ方面軍兵站監に就任してビルマ全体の補給トップになって、そのまま戦死です。
で、この高田清秀少将がビルマ方面軍兵站監に就任したころに、独断撤退寸前の第31師団司令部に、自ら物資を積んだ鹵獲ジープ3台で乗り付けて、師団長とも直接面会して慰労品とか渡したとの記述が。
(ビルマ方面軍兵站監就任には日付の混乱があったらしく、戦史叢書ではこの時の肩書はまだ第5野戦輸送司令官とされているとか)
インパール作戦補給取りまとめどころかビルマ全体の補給まで任されて忙しすぎる筈の、高田清秀少将が自ら鹵獲ジープ3台で第31師団司令部に行かなくてはならなかったということは、補給部隊側では第31師団の動きがやばい、と認識してたということでしょうね。
この高田清秀少将は、輜重兵科ながら陸士恩賜で陸大出で、結局、最期は方面軍兵站監としてエナンジョン油田に派遣されていた技術者等の非戦闘員をとりまとめて撤退中に、イラワジ川周辺で戦死です。
ビルマの輜重部隊トップな方面軍兵站監という職務上、真っ先に後方に撤退しても誰も文句は言わないでしょうに、インパール作戦で敗北寸前の第31師団を訪ねたり、民間人を保護して撤退したりで「現場の人」だっただろうな、と思いました。
ビルマの日本軍はエナンジョン油田を持っていたので、石油の補給に困らず、消耗した師団を緊急に自動車輸送したり、自動車化が進んでるのですが、エナンジョン油田そのものにビルマ方面軍兵站監が居たことから、その重要性が判ります
この本に記載されている将官の戦死状況は、
「中国戦線で戦死だけど、当日その戦区は平穏だったはずで戦死状況の記録も残ってない」
「ホロ島守備の独立第55独立混成旅団長の鈴木鉄三少将の戦死時は、モロ族ゲリラから逃亡中にろくな診断もせず病死と判断したが埋葬も出来ず、そのまま捨てた(この旅団の戦記は 最悪の玉砕戦場~独立混成第五五旅団(菅)戦記ぐらいしかネットでは見かけません)
とか、華々しい戦死はこれっぽちもなくて、輸送中に海没、敗走中の惨めな戦死、玉砕戦場で戦死状況不明等ろくでもない死に様ばかりです
2014-07-07 14:26
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