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1333年の名越高家 [歴史]

 やる夫が『梅松論』を語るそうです。 第三十二回 ティロ・フィナーレを読んで、鎌倉幕府滅亡時に、足利尊氏の裏切りをなんで鎌倉幕府は警戒しなかったんだ、とよく言われますけど、その時点では、足利より名越家の嫡流の名越高家の方を幕府側では警戒してる事を今更ながら気が付きました。
 執権北条氏一族で名越家は得宗家にしょっちゅう逆らって、何回も粛清されてますから、足利氏なんぞより「ずっと、そこにある危機」です。
 
 そう考えると鎌倉幕府滅亡寸前に、それぞれ一万以上の兵力を保有する足利尊氏と名越高家の軍勢を動員して、京に向かわせたのは、幕府が帰趨が怪しい戦力でも切り札とせざるを得なかった状況なわけですね。

 名越高家は京都に到着して、すぐに赤松軍との戦いで戦死してしまいますが、(やる夫梅松論では部隊配置から、もし赤松軍が負けても足利軍は名越軍の背後から不意打ちできる体制だった、という説をとってます)、戦死せずに名越軍が幕府を裏切って六波羅を制圧してたら、名越高家の名前が名越尊家になってた可能性もあるのかな、と妄想してしまったり。

 もっとも、そうなったとしても将来の足利氏の覇権は揺るぎそうもないですが、南北朝時代の戦乱が更にカオスにはなってたでしょう。


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コメント 1

彰

二月騒動後の名越家がそこまで警戒されていたかどううか・・・
確かに執権も連署もいないですが、評定衆は出ているんですよね。

まぁ、ほとんどの武士が鎌倉幕府が亡くなった後も北条を排除するだけで似たような機構は残ると考えていたっぽいことを思うと
幕府の頭の挿げ替えだけで済むと名越家が見積もった可能性もなくはないですか。
後醍醐のやろうとしてたことは誰も理解できてなかったっぽいですし

うーん。吾妻鏡には書いてない時代だし、増鏡でも読んでみますか。
by 彰 (2013-12-07 22:35) 

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