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弥生時代の戦闘 [歴史]

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弥生時代の戦い―戦いの実態と権力機構の生成

弥生時代の戦い―戦いの実態と権力機構の生成

  • 作者: 橋口 達也
  • 出版社/メーカー: 雄山閣
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本

を読みましたので、その感想を。

この本は「弥生時代の殺人検視報告書」とでも言うべき本で、主に北九州の弥生時代の遺跡に埋葬されていた人骨から、その遺体がどのような死に様を遂げたのかに内容の多くが割かれてます。

・剣2本を刺突され、首を切断されて死亡
・背後から右利きの人間が逆手に持った石剣で背中を刺されて重傷。
 骨に化膿性炎症の跡が残っていることから、負傷後2ヶ月ほど生存していたが治癒せずに死亡と思われる。

とかの内容ばかりです。
 こういう死体の多さからして、弥生時代はどう考えても大戦乱の時代ですよね。
 ただ敗北したと思われる側もきっちり戦死者の埋葬を行っていることから「負けた側は皆殺し」まではいっていないようですが。

 あと色々と興味深いことが書かれていて、

・人骨の傷跡に剣や刀の傷が残っているのは九州地方が主で、山陰や畿内は矢傷ばかり。
 九州以外は至近距離でも弓矢を使っていたようです。
 これは白兵戦とかきちんとやれたのは、九州地方だけということですね。

 一般的に「白兵戦」というのは未開の野蛮人のやることと思われがちです。
 ただ、どうも直接の斬り合いとかを堂々とやるにはある程度の文化が無いと出来ないようで、それを示しているのかもしれません。
 大航海時代にヨーロッパが新世界を制覇できたのも鉄の武器による白兵戦の強さも一因ですし。

・刀剣による傷は背後からやられたものばかり。
 パニックに陥って逃亡したところをやられたという感じかと。
 これも弥生時代には「白兵戦」への慣れがあんまり無いことを示しているのかも。

・死体には刺した時に折れてそのまま体内に残ってしまった石剣や銅矛の切っ先が残っているのが非常に多いですが、鉄製の武器の切っ先が残っている例は全くありません。
 これだけでも鉄製武器の優位性がよく判ります。
 石剣や銅矛は切っ先がよく折れるので研ぎ直して切っ先を付け直している例も非常に多いです。

 他に類書があんまりありませんが、いわゆる「倭国大乱」の時代の戦争について書かれた数少ない書かと思います。
 「昔は平和だった」とか言う勝手な思いこみを散々に打ち破ってくれる本でもありますね。


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コメント 4

とおりすがり

そういえば鎌倉時代くらいまででも主力兵器は弓矢でしたっけ?
むしろ弥生時代から弓矢を主力とする態勢が変わらなかったという
ことかもしれません。

by とおりすがり (2008-10-17 02:04) 

Flan

一説によれば主力兵器は常に投射・遠戦兵器であり、白兵戦は混戦や止めをさす、といった状況でしか行われなかった、ともいいます。
まぁ、南北朝~戦国前期にかけて長槍足軽隊が発達したことを考えれば遠戦兵器だけが常に主力だったとは思いませんが自軍の損害を少なくしたいと思えば戦術的には白兵戦闘よりも遠戦でできるだけ趨勢を決めておく方が好まれるのは或る意味当然かもしれませんね。
by Flan (2008-10-19 17:25) 

堅一

ずっと飛び道具主力で過ごしてきた軍隊が、白兵戦なんか怖くないぜ!むしろウェルカム!!という軍隊にぶつかったら相当ひどいことになるのでしょうね。もちろん、得意の飛び道具で処理できれば問題ないでしょうが、巧みに白兵戦に引きずり込まれたら・・・・
by 堅一 (2008-10-25 23:48) 

島根考古学ファン

いま、籔田紘一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。

by 島根考古学ファン (2008-11-25 00:42) 

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