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幕末の外米輸入と、それがもたらした影響 [歴史]

 Twitterの方で前に書いていた事を少しまとめてみたり。

 江戸時代には飢饉で餓死者が続発してましたが、幕末の開国で外国からインディカ米の緊急輸入を行えるようになると、終戦前後の一時期を除いて、日本で餓死者が多数出る事はなくなりました。

 具体的に外米の大量輸入が認可されたのは、慶応2年(1866年)10月14日で、この時には、不作及び長州征伐による米流通の阻害により、各 地で米不足による一揆や打ち壊しが頻発して治安悪化しており、イギリス及びフランスが「第二の太平天国になりかねない」と判断して、幕府に外交圧力をかけ て、外米輸入を認めさせたものです。
 つまり、幕府が積極的に米輸入を認めずに、外国からの圧力で餓死者が出る事が防止された事になります。

 インディカ米が本格的に日本に流入しだしたのは慶応3年(1868年)になりますが、慶応3年は大政奉還とか色々とあって、そのまま慶応4年1 月に鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が負けて、一気に瓦解する事になりますが、この急激な動きは、この外米輸入による飢餓改善が絶対に影響を及ぼしているかと。
 慶応3年は大政奉還があったり、それまでも落ちまくってた幕府の権威が更に一気に落ちて、朝廷の権威が上がった年ですが、去年まで飢餓状態だったのに、インディカ米とはいえ腹一杯に食べられるようになったら、一般民衆レベルでの朝廷の権威もダダ上がりだったでしょうね。
 戊辰戦争での新政府軍の快進撃も、食糧事情の改善と重なった朝廷の権威向上が絶対に影響及ぼしてます。
 少なくとも、飢饉から救ったのが幕府だとはみんな思わないくらいに、幕府の権威が落ちまくってはいたかと。

 幕末の政治の流れで「もしかしたら幕府が残ったかも?」という意見もありますが、当時の武士政権の権威の落ちっぷりを見ると、とても無理に思えてきます。
 鳥羽・伏見の戦いで幕府の権威が一気に落ちると、日本全国で一揆が続発して、かなりの藩が統治能力を喪失。やってきた新政府軍に一揆を鎮撫してもらって、そのまま藩兵は新政府軍に編入とか沢山ありますからね。
 農民一揆の嵐は北関東で統治能力を喪失しなかったのは3藩だけとか、凄まじいレベルです。

 また戊辰戦争中でも、旧幕軍の長岡藩が戦略的に有力な動きを出来なかったのは、自領の農民一揆を鎮圧しなければならなかったからで、会津藩でも降伏直後に戦禍に遭わなかった地域を中心に大一揆が起こって統治組織が完全に崩壊してます。

 一方、新政府軍は後方の農民一揆とかをほとんど気にする必要がありませんでした。
 それどころか鳥羽・伏見の戦いのように周りの民衆が手弁当で援助してくれる事例も多数です。

 正直、開国後に幕府を生かすためには開国直後から、外米の大量輸入を行なって、食糧難による治安悪化を未然に防ぐくらいしか思いつきませんが、開国までに既に幕府の権威は下落しているので、極めて難しそうです。
 あと色々とありすぎて、幕府もそっち方面に優秀な人材割けないし。

 政治とか軍事とかの流れを追う人は「実情を調べる」のを重視していて軽視されがちですが、歴史においても「権威」って極めて重要で、幕末の米不足でそれの下落が致命的になったという感じですから。 
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